私が5歳の時、曾祖母が亡くなり、母の手作りの黒いワンピースを着て、お葬式に参列したことを憶えています。当時は自宅での葬儀でした。外で霊柩車を見送ったことを覚えています。
私が留学のためにアメリカに発つ日、玄関先で見送ってくれた(父方の)祖父。心臓に病気を抱え、当時は入退院の繰り返しの生活でした。祖父の最後に立ち会うことはできないかも知れないという覚悟の上での渡米でした。
そんな祖父が、空港に向かうために車に乗ろうとする私に「自分も頑張るから、香代も頑張ってきなさい」と力強く手を握ってくれました。
『香代が帰ってくるまでは頑張って生きているから、香代も頑張ってきなさい』という意味だとすぐに分かりました。
身体は弱っていく一方でしたが、私の帰国直前には「孫が帰ってくるから」と言って、お医者様や看護士さんが驚くほどの快復ぶりを示したそうです。
平成3年、暑かった夏が終わりを告げ、秋を迎えたある日、祖父は永遠の眠りにつきました。
自宅で療養しておりましたが、容体が悪化して病院に救急搬送されて数日後のことでした。直前まで意識もはっきりしておりましたが、徐々に呼吸ができなくなり、人が死ぬということを初めて目の当たりにした瞬間でした。
病気療養をしていたと言いながらも、体調がいい時には仕事をし、亡くなる直前まで各種団体の役員を兼任していました。定年後は夫婦で旅行を楽しみ、仕事では役員や相談役として多くの人から人望を集め、人生の一番いい時期に旅立つことができた祖父は、長生きではなかったけれども、とても幸せな人生だったように思いました。
亡くなってから丸3日間、担当者の方がつきっきりでお世話して下さいました。
その時の担当者の存在がとても大きく、私が葬儀の仕事に携わることになったのも、真摯に取り組んで下さったその担当者の方の存在があります。
祖父が亡くなってから、(父方の)祖母は19年間、一生懸命に生きてきました。
リウマチを患い、日常生活も「痛い痛い」の繰り返しでしたが、80代後半頃から入退院を繰り返すようになり、老人保健施設での生活になりました。
母が毎日、施設へ足を運び、ここで「介護」ということを知りました。
別れの日は突然にやってきました。母がいつものように施設に行き、いつものように「また来ますね」と言い、別れたのは昼間のことでした。「もう少し暖かくなったら、おばあちゃんの好きな鰻を食べに連れて行ってあげうようね」と母が話していたことを憶えています。
8時まで談話室でテレビを見ていたそうです。就寝時刻になったので、いつもと同じようにベッドに入り、施設の人にお休みなさいと言って寝たそうです。
少し発汗があり、気にかけるようにとの伝言がありました。8時半頃、もう一度見回りに行くと、既に息をしていない状態でした。救急搬送で救命病院に運ばれました。電話があったのは、救急搬送されている時でした。電話の向こうで救急車のサイレンが聞こえていました...。
家族に見守られながら息を引き取る、そんな理想とはかけ離れた別れでしたが、文字通り、眠るようにその生涯を終えることができた祖母は、幸せだったのかも知れません。
最期の時を一緒に過ごせたとしたら、祖母は私たちにどんな声を掛けてくれただろう。私たちは祖母に何と言っただろう、と考え続けました。
それは後に、私が葬儀のナレーションで使う言葉の一つ一つに影響を与えることになりました。
「おじいさんがお風呂で倒れている」という電話があり、慌てて駆けつけると、そこに(母方の)祖父が倒れていました。病院へ救急搬送されましたが死亡が確認されました。一人でお風呂に入れるような状態ですから、どこに疾患もなく元気そのものの祖父でした。
別れを言えない別れを生まれて初めて体験しました。
祖父とは、母が毎日様子を見に行っていたこともあり、最も交流があった孫のように思っていましたが、いざ葬儀となると、外孫の私は(当然のことかもしれませんが)その立場に応じた役割をもって葬儀に参加することになりました。
祖父との在りし日の思い出はたくさんあるのに、その時の葬儀のことを振り返ろうとしても、ほとんど思い出せないのが今でも不思議な気がします。
母方の祖母は気丈な人で、クリーニング屋を立ち上げ、4人の子供達を育て上げました。子供達が大きくなってからは喫茶店を始め、後に小料理屋を開きました。夜はお針子仕事・刺し子を欠かさない働き者で、大変な苦労人でした。
そんな祖母ですが、90歳で人生初めての入院をした頃を境に認知症になりました。そんな折、同居していた三男が亡くなる不幸に遭遇します。認知症の状態でも息子の死は祖母にとって大きな衝撃でした。それから、認知症は急激に進行していきました。
長男か次男が付き添うことで、年末年始だけ長年住み慣れた家で過ごすことになりましたが、その時不運にも、お仏壇の蝋燭が引火して火事になり、家を全て消失してしまいました。
こんなに長生きをしていなければ、我が子に先立たれる悲しみに遭わず、家が火事で無くなるという苦しみも知らないで済んだのに。祖母は、長生きをして本当に幸せだったのでしょうか。そのことがいつまでも頭から離れなくなりました。
長生きをするということは、多くの幸せに恵まれると同時に、それと同じ分の多くの不幸を経験するものだということを祖母の人生から教わりました。
父方、母方の祖父母の人生は、私には計り知れないものがありますが、その晩年の生き様は人それぞれであり、私や家族との別れ際もまたそれぞれでした。
100人の人がいれば100通りの生き方があり、100通りの別れ方があることを身をもって知りました。お葬式は、それぞれの長い人生の集大成として、それぞれの生き様を締めくくる一回限りの機会であると考えると、その責任の重大さに身が引き締まる思いです。
これからも、それぞれの人生の最期を心を込めてお見送りさせていただこうと、あらためて心に誓いました。